小さく眉間に皺を寄せて混乱する美鶴の姿を見遣り、肩に手をまわそうとして瑠駆真はやめた。
触れたら最後、自分は自分を止められなくなってしまうかもしれない。
運転手がブレーキを強く踏んだ。二人の身体が大きく揺れる。幅の広い水色のリボンがフワリと舞った。美鶴は結び直そうと指を動かす。だが悴んでいてなかなか結べない。四苦八苦の末にようやく蝶結びを作る。
肩からズリ落ちそうになる上着を引っ張り上げ、なんとか身形を整える。
ボタン、取れちゃった。
リボンを結べば取れたボタンの喪失は目立たない。だが美鶴は、それでも胸元に片手を当てたまま。
聡を置いてきちゃった。
動悸はなかなかおさまらない。
聡、ごめん。
なぜ謝るのだろう。あんな事をされたのに、なぜだか自分の方が酷い事をしたような罪悪に苛まれる。
聡を自分の部屋に置き去りにして、そうして自分は瑠駆真の部屋になんて、入っても良いのだろうか?
根拠の無い不安が胸中を覆う。だが今の美鶴には、毅然と相手を拒絶できるだけの気力は無い。
二人は無言のまま、瑠駆真の部屋へと向かった。
良く言えば小ざっぱりとした、悪く言えば寒々とした部屋だと、美鶴は思った。
「適当に座って」
言われてとりあえずベッドに腰を下ろす。
床に置かれたテーブルには、朝食べたのだろう菓子パンの食べ残しだけが乗っている。
毎日、こんな食事してんのかな? 私も似たようなもんだけど。
学校で王子様ともてはやされている人間の部屋とは思えない。王子様の部屋というものを見た事があるワケではないのだが。
「何か飲む? 暖かいものがいいよね?」
「あ、いい。別に」
「遠慮することないだろう?」
そう言って、瑠駆真は勝手にコーヒーを入れて持ってきた。もちろんインスタントだ。
「ありがとう」
仕方なく受け取る。
瑠駆真も、美鶴の横に腰掛けた。ベッドが軋み、美鶴の身体が少しだけ瑠駆真の方へ傾ぐ。倒れてしまわぬように踏ん張り、座りなおす。
だって倒れたら、コーヒー零しちゃうじゃん。
一口啜り、その熱さに思わず瞳を細めた。
「熱かった?」
「いや、大丈夫」
両手でカップを包み、そうしてもう一口。ズズッと、なんとも行儀の悪い音が響く。
瑠駆真は美鶴側の手をベッドに乗せ、片手でカップを傾げる。そうして二人、無言でコーヒーを啜った。
成り行きで来てしまったけれど。
沈黙に耐えながら美鶴は考える。
どうして、こんなことになっちゃったんだろう?
確かに、あの場に居ては状況は悪化する一方だっただろう。聡は瑠駆真に殴られたか蹴飛ばされたかして吹っ飛んだに違いない。だが、それくらいで冷静さを取り戻したとは思えない。瑠駆真と二人で部屋を後にする美鶴の背後に投げられた喚き声。それが聡の感情を証明している。
だって、聡があんな事をするから。
そこでハッと息を呑む。そうして傍らの瑠駆真を見上げた。
「どうして、私の部屋に来たの?」
「それ以外に考えられなかった」
瑠駆真はぼんやりと視線を前へ向けたまま、だがはっきりとした声で答える。
「え?」
「学校に来ていなくて、聡もいないからおかしいと思った。携帯に電話しても通じなかった。最初は鳴ったのに、すぐに切れてしまって、それからは通じなくなった」
そこで瑠駆真はゆっくりと首を動かす。その動きはまるで発条人形のようだと、美鶴は思った。
「二人は一緒にいると思った」
「どうして?」
「逆の立場だったら、僕だったらやっぱり同じ事をする」
聡と美鶴がキスをしている写真なんて見せられたら、自分もきっと美鶴を問い詰めるだろう。
「駅舎というのも考えたが、登校時の君を捕まえてわざわざ通学路から外れた駅舎へ連れて行くというのは考えにくい」
「どうしてよ?」
「時間が惜しい」
なぜこんな写真が携帯で出回っているのか? 一秒でも問い詰めたいに決まっている。でも、人目も憚らずに問い詰めれば、美鶴は逆に口を閉ざしてしまうかもしれない。美鶴はそういう人間だし、なにより人前では問い詰められたくない話題だ。
どうして瑠駆真とキスなんてした? どうしてこんな写真がある? そんな言葉を公衆の面前で叫ばれたら、誰だって赤面ものだ。
だったらどうする?
「君の部屋へ戻るのが一番てっとり早い。彼は両親と一緒に暮らしているから、自分の家へ君を連れて行く事はできない。君の部屋以外に、場所は無い」
そうして瑠駆真はコーヒーを一口飲み込む。
「小童谷の思惑通り、学校は写真の話題でもちきりだよ。一日でどれだけ落ち着いてくれるか」
「ねぇ、どうしてあの小童谷って奴はこんな事をしたワケよ?」
自分を捕まえて瑠駆真の前に引き摺り出して、そして―――
「奴のやっている事は滅茶苦茶だ。明確な目的があっての仕業じゃない。それだけに行動が読めなくて厄介だけどね」
そこで瑠駆真は視線を落とした。
明確な目的が無い、というワケでもないか。
そんな相手の心情を読み取るかのように、美鶴が声を低くする。
「でも、やっぱり私は巻き込まれた立場なんだよね?」
チラリと視線だけを向ける瑠駆真を憮然と見上げる。
「アンタと奴とのトラブルに、利用されてるんでしょう?」
予想していたとはいえ、やはりそこを突かれると痛い。
瑠駆真はグッと唇に力を入れる。
「アンタとあの小童谷って奴との間に何があるのかは知らないけれど、私には関係のない事だ。だからもう私を巻き込むのはやめてくれ」
もっともだ。
瑠駆真は反論できない。
小童谷の標的は自分だ。僕の日常を乱し、僕が取り乱す様を見て愉しみ、僕が美鶴に遇われるのを見て満足感を得ようとしている。美鶴を捕まえてあんな事をしたのだって、僕の行動を読んでの事だろう。美鶴の唇を奪えば僕が美鶴にあのような行動を起こしてしまうだろう事を見越しての、質の悪い奸策だったのだ。
そして僕は、まんまと奴の挑発に乗ってしまった。
脳裏に小童谷陽翔の嘲笑が聞こえる。そして廿楽華恩の高笑いも。
なんて性根が悪いんだ。世の中はすべて自分の思い通りに事が運ばなければ気が済まないなんて。
悔しい。純粋に悔しいと思う。
思い通りになんて、させたくない。
コーヒーを飲み干し、目の前のテーブルに置く。瑠駆真の耳に響く声。
「そちらが想っていても、果たしてあちらは想っているのかな?」
言い返したかった。美鶴も自分を想っていると言い返す事ができれば、どれほど気持ち良かったことか。
だが、それは叶わない。なぜならば、美鶴は自分を想ってくれているというワケではないのだから。
自分の想いさえ届いてくれれば。
そこでふと、瞳が揺らぐ。漆黒の、深い闇に星が浮かぶかのような円らな瞳が波を打つ。
僕の想い。
隣の少女を見下ろす。
僕の想いは、届いてはいないのだろうか?
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